こころの杖
 
1994年10月 魂(たましい)
 
 ある心理学者が「本当の一人ぼっち」を試したという。場所は徹底して人の居ない山奥。ところが夜中になるに従ってだんだんと恐くなってきた。隣の部屋に確かに何物かがいる気配を感じ、ガタッといったら途端にナイフを握りしめていた。後で考え直してみれば、あの隣でうごめいていた気配、あれこそ私の中の「無意識」というものではなかったろうかと彼は言っている。
 本当の一人になる体験というのは実際にはなかなか出来ないものである。「私は一人ぼっちよ」などと言ってはみても実は隣家の気配があったり、手紙や電話の交流があったりで、本当の一人切りにはなっていない。
 現代人の多くは忙しく毎日を送るだけで、一人切りになって我が心の内をじっと見つめる余裕など殆どありはしないだろう。人と会っていても「やあ、お元気ですか。」とか「良い陽気になりましたなあ。」などとお互いおざなりの会話を交わすぐらいで、本当の自分を叩きつけて、相手からもズバッとストレートに返ってくるような交流の場は皆無に等しい。つまり生き生きとした付き合いはないのである。
 同様に夫婦親子の間柄でも、余分なことを言えばうるさがられるだけなので、お互いが益々疎遠になっているというのが現状である。物が豊かになると忙しくなる。何故ならせっせと金儲けを始めるからだ。現代人は忙しいことを良い口実にして、実は人生において最も大事なことと真正面から向き合おうといないのである。
 ではどうしたら良いのだろうか。逃げてばかりではどうしようもない。私は「異世界」の人と話し合ってみることをお薦めする。「異世界の人」とは 「あの世の人」、つまり亡くなった親や友人のことである。彼らが今そばにいて共に食事をしたらどうだろうか、お互い何を話すだろうかなどと想像してみると良い。又日頃馴染みの人々とも、いつものやり方でなく、異なる世界からわざわざ自分を尋ねてきてくれた大切な人だと思って話してみる。するとちょっと違った感じになるのではないだろうか。
 つまりこれこそ「異世界」と私との交流なのである。異世界とは「無意識の世界」のことである。日常生活での欲しい、惜しい、憎い、可愛いなどという感情は、誓えれば海に浮かぶ氷山の一角であって、実は殆ど見えない膨大な水面下の「無意識界」が存在しているのである。
 これを言いかえれば、魂との交流とは言えまいか。当然こう言うと必ず次には魂は有るのかとか無いのかとか言う議論が出てくる。しかし問題は魂の有無ではない。自分の行いや感情を「魂」というものの見方で、見直してみようということである。
 自分の行為を損得の面から見るということも出来る。又誰かがそれを喜んだとか悲しんだとか言う感情面から見ることも出来る。しかし、もう一つ自分の行為で私の魂はどう感じただろうかという見方がある。そういう思い方をするとふっと次元が変わって、ものの見方が広くなり「なあんだこんな小さなことにこだわって、ゴチャゴチャ言っていたのか。」と、すうっと楽になることがある。
 この間郷里に帰って九十才になる母と話をしていたら、こんなことを言った。「九十まで生きるなんて、だいたい生き過ぎよ!若い者はこんな年寄を抱えていたら実際大変ね。年寄なんて淋しいものよ。」
 今、忙しい忙しいと言ってめまぐるしい毎日を送っている我々も、やがては一人ぽっちになる。最初「本当の一人」 になるのは難しいものだといったが、一人欠け二人欠け周囲を見渡してみれば親しく話し合える人は無くなり、寂寞とした孤独感にさいなまれ、自分ひとりが暗闇の中空にぽつんといるような気がして背筋が寒くなってくる時が、必ずやってくるのである。その時自分がもう生きすぎてしまった余りものの人生と感じたり、 ただ淋しいというだけだったら、どんなに虚しい人生の終末だろうか。
 年を重ねれば誰もが体力も気力も萎えてくるのだから、若いときと同じように生きられないのは仕方がないことである。しかし、日々の生活に追われていたような若い頃と違い、時間に余裕が出来、のんびりと暮らせるようになった今、忙しかった頃には出来なかった自己の内なる魂と真正面から向き合い、語り合い、そこから新たに広がりをもった豊かな「生」を、年老いたその時こそおくるこ 出来るのではないだろうか。母には一日でも長く生きて、そういう実りある悔いのない人生をおくって欲しいと願っている。
 

 

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