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2017年10月08日

無明の井

これは免疫学者だった故多田富雄氏が書いた創作能である。北国の荒野、石造りの井戸、水は涸れて、もはや打ち捨てられている。旅の僧が傍らで休んでいると、どこからともなく女が来て水のない井戸から水を汲もうとする。不審に思った僧が尋ねると女は答える。これは罪深き女のために空しくなった男の霊によって水が涸れた命の井戸。その涸れた井戸から水を汲めば迷いも少しは晴れると思い今宵もここへ来たのだと言う。すると漁師が現れ、その井戸の水は人の命より湧き出た水であり、他人が汲めば我が命が縮まり、身を苦しめる事になるので、この水は汲ませない。涸れた井戸の水をめぐって争う二人、実はこの世にいない亡魂なのだ。男女は僧に哀れみたまえと言い残し、古井戸の底に消え失せる。実際には出会うことも明かされることもないドナーとレシピエントが、夢幻の霊となって心の内を吐露しあう。多田冨雄は免疫学の立場から生命をひとつのつながりをもった動的なシステムだと捉えていた。そこには絶え間ない相互作用があり、全体性がある。切り取ったり、移し替えたりできる部分的なものはない。強行すれば免疫系は壮絶な拒否反応を示す。免疫抑制剤によって無理矢理押さえつけ、一方で感染症を防ぐために抗生剤が投与され続ける医療とはいったい何だろうか。多田富雄の目指したものは生命の全体性である。実に深い生命観ではないだろうか。

投稿者 zuiryo : 2017年10月08日 14:41

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