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2017年01月14日

つばき姫

「今度の旅行でね、傑作なあだ名をもらっちゃった」ロシアのテレビ取材に同行して二ヶ月ぶりに帰国したわたしは、玄関先で出迎えた父の顔を見るなり報告した。「つばき姫っていうの」途端に曇った父の顔を見て、アレクサンドル・デュマの「椿姫」のヒロインは高級娼婦だったことを思いだした。慌てて言い添えた。「ロシアのパッサパサにかわいたパンがあるでしょう。それで作ったサンドイッチ二人前を飲み物一切無しで平らげちゃったのよ。それで、「つばき姫」ってあだ名がついたの。唾液が豊富だってわけ」父の顔面から懸念の色がみるみる消えて口がほころんだ。もっとも、その微笑みには、かすかな苦味があった。適齢期を遙かに過ぎかかっている娘の色気の無さに、安堵とあきらめと心配をにじませた笑顔があった。父の亡くなる一年前、今から十六年も昔のことである。わたしは、この「つばき姫」というあだ名が大好きだ。胃腸が丈夫で唾液が豊富なのは間違いなく父譲りだから。(米原万里、エッセイより)

投稿者 zuiryo : 2017年01月14日 08:32

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