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2012年01月27日

死ぬのどこ?

いきなりへんな表題でなにごとぞ!と思われるかも知れませんが、辛抱してお読み下さい。近年親しい人が次々にガンで亡くなり、又現在闘病中の方もいる。全く人ごとではない。明日は我が身である。世界中の学者がガン研究に日々努力しているにも拘わらず、未だ決定的な治療薬は見つかっていない。ガン克服の道程は果てしなく遠く、この先百年はかかるだろうと言われている。となると現在の我々は自分がもしガンに罹ったとき、いかに自分の生活の質を落とさず、これで良いと思える最期を迎えるかを予め考えて置かなければならない。これが現在我々の出来るせめてもの工夫である。そこで一つの死に方として非常に参考になる本があるのでご紹介する。徳永進著「野の花診療所の一日」。ガン終末医療の一つのあり方を示している。一部を引用させて頂く。『「どこ?」という言葉はよく使う。「どこで食べる?」中華料理店、そば屋、回転ずし、レストラン、ハンバーガーショップなどと答える。「旅はどこ?」すると、グアム、シドニー、プラハ、パリ、などと答える。「死ぬのどこ?」と聞かれても、みんな「ええっ??」と言ってそこから先はモゴモゴとなる。それを質問する人がそもそも極めて少ない。「縁起でもない」「自分は死にはせんだろう、他人は死ぬけど」と思ったりする。・・・・でも、ガン末期になったときなら、何処で死ぬというのは考えて置いても良いと思う。家庭の事情というのはいろいろあるので、一概には言えないが、お勧めは「家」だ。家には病院にも負けないし、ホスピスにも負けない良さがいくつもある。昔と違って、家にもベットや酸素吸入器や吸引機、それに点滴だってあっという間に用意できる。住み慣れて我が家の一室で、使い慣れたスタンドやコップや机、見慣れた庭や天井、聞き慣れた犬の声、豆腐売りのラッパ音、そこで自分の好きなCDやラジオ番組、テレビを見ながら時を過ごす。手助けをしてくれる人が常時居る。それが絶対必要条件となるが、それが可能になると、そこはとても居心地の良い解放区になる。そこはその人に一番ふさわしい空間になる。まるで蚕のマユの世界のよう。懐かしい時間が満ちているからだろう。・・・生活の場、暮らしの場である家は死をも受け入れる。家は死が似合う場、死は家が似合う事象。死は生活の一部、暮らしの一部だから。』以上印象に残ったページの抜粋である。死生観はひとさまざまだから、これが良いと断定は出来ないが、私はこのように死を迎えたいと思っている。そのためにはまず親身になって世話をしてくれる良い弟子を持つことが先決である。知人でほぼ寝たきりのお師匠さんを15年間の長きにわたりお世話した奇特な方が居るが、これは弟子も立派だがそういう弟子を育てた師匠が立派な人だと言うことである。そう考えると、ところでお前さんはどうなんだねと問われている気がして、グラッときて、こりゃ~儂には無理か!

投稿者 zuiryo : 2012年01月27日 14:58

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