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2011年03月10日

村づくり

以前「ガングロ」が若い娘達の間で流行ったことがある。何とも奇妙で気味の悪い格好が流行ったものだと眉をひそめた。ああいう連中は単なる落ちこぼれの目だちがりやだと決めつけていたが、日本人論を研究する学者に言わせるとそれだけではないようだ。以下は松岡正剛氏の「日本力」から引用させて貰う。海外のデザイナーの中には、ガングロに刺激されていろんなヒントを受けている。週刊誌などの扱い方も、上から目線で撮っている。暗くて落ちこぼれている若者という感じである。しかし彼女たちは、「祭り」を作ろうとしているのだ。今の日本社会には祭りが足りない。彼女たちはガングロという村を作って祭りをしようとしている。それはとても健全なことだというのである。つまり○×の学校成績で言えば、×なんだが、○×ではとらえられない別の生き方、別の道を、彼女たちはそう言うフアッションで自分たちの村、コミュニティーを作っている。彼女たちのその後の人生を見ると、大工さんやトラックの運転手、現金収入の職人などと結婚して、良いお母さんになろうと頑張っている。また一時流行った女子高生のルーズソックス、何であんなものが面白いのか、何故流行ったのか、どういう気持ちでやっているのか、全く解らなかった。しかしあれも畳の縁(へり)とか袖口、半襟と同じものだという。少女達はそう言う日本文化にどこかで繋がっている。女の子達はみんな柔らかさが欲しいのだ。これも彼女たちは小さな「村」を都市社会の中に上手くゆるやかに結びつけている。とても柔らかだから永続的なコミュニティーではなく、はかない存在で仮置きだから、直ぐにお母さんにもなれるし、ちゃんとした勤め人にもなれる。さらに日本人論は続くのだが、フアッションやモード文化がどういう風に日本を表現しているか。例えば三宅一生のフアッションなどに良く出ている。彼はこの様に言っている。「ぼくはお米が哲学なんだ。米を哲学にかえて、それでデザインしている」。日本文化というと、わびさびという。本来、「もっと持ち合わせがあれば、このぐらいのものをお出ししたいのに、残念ながらこれだけです」とか、「いらっしていただいたのに、いい料理もないし、茶碗もないので、ごめんなさい」と言って出すのが、「わび」であり「さび」である。わびは「詫びる」。さびは「寂しい」である。本当は上等なのに、それをはずして使う感覚、つまり「引き算の美」がある。何かを引くことで、逆にそこに何かあることを感じさせるということである。とまだまだ話しは続くが今回はこれで終わる。

投稿者 zuiryo : 2011年03月10日 11:22

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