« 川上哲治さんのこと | メイン | 大雪 »

2011年01月14日

初釜

茶道の新年初釜で、名古屋の家元主催のところと、岐阜支部の初釜も山内のお寺で行われるので、毎年この2ケ所へ出掛ける。先日もある人が、全くお茶の心得がないのに、初釜に参加しなければならなくなり、神経使ってへとへとになったと嘆いていたのを聞いた。私も瑞龍寺に住職したてのころ、お茶の心得も何もなく、立て続けにお茶会に出席しなければならなくなり、へとへとになったことがあった。当時、信者さんが立派な茶室を建てられ、正式な茶事にもよばれて、もうへとへとなんてものじゃない、頭がくらくらするくらい疲れ果てた。懐石料理の食べ方でもなかなかやかましい決まりがあって、それを知らないと矢張り恥をかく。そこで無知を反省して、山内の和尚さんで茶人の方が居られたので、3年間うちの茶室を使って徹底的に稽古した。お陰で一通りの御点前、勿論お茶の飲み方、作法、懐石の食べ方等々、何とか恥ずかしくない程度には出来るようになった。その頃はまた信者さんで還暦・古希・喜寿・傘寿のお祝を、茶事を催してされた方がいたので実地訓練で、随分経験を積むことが出来た。私も10年ほど前、還暦は自分が亭主になってうちの茶室を使って茶事を催したことがある。岐阜の旧家では、こういう催しをしばしばされるので、私もあやかってやったというわけである。修行中は勿論、鎌倉に住職していた頃も、お茶には全く無縁だったので、ここに来てから大変身である。郷に入っては郷に従えである。尤もお茶事はそれに相応しいお道具類が無くては出来ない。茶室はあっても道具のないお寺ではお手上げである。ところが有り難いことに、大変親しくさせて頂いている旧家のご主人が、全てその都度蔵から出して下さる。だから私も真似が出来るというわけなのである。今年の11月に古希やその他いろいろ組み合わせた祝いをするが、これもまず茶会を催してから祝宴となる。兎も角全てお茶事が有ってからだから、その為の道具組みを1年前から始めている。この道具組みというのも専門的には大変難しく、茶会の趣旨に添ってプロデュースすることで、道具の組み合わせの妙を楽しむのである。これも蔵の奥が深くないと出来ないことで、茶事とは高級娯楽であり、社交場でもあるのだ。

投稿者 zuiryo : 2011年01月14日 19:30

コメント