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2018年02月07日

お寺の鐘

以前うちの寺に関係あるお寺さんで新たに梵鐘を作ることになった。そこで少々皮肉を込めて、「お前な〜、厄介なものの代表に隠居と鐘ということばがある。鐘は一度釣るしたら、以後決まった時間に永久に打ち続けなけらばならないから大変だぞ!」と言ってやった。うちでも朝晩決まった時間に梵鐘を打ち続けている。これは雲水が役目でやっているから、当たり前になっているが、一般のお寺では和尚がやらなければならない。「いいえ、その心配はありません。鐘を寄付してくれた檀家の者が、打たれると喧しいので打つなと言われています」と言うではないか。「それじや〜何のために高価な鐘を作るんだ!」と言ったら、隣の寺に負けないように作るんですと言った。開いた口が塞がらない。また別の友人の寺でこの話をすると、「市の条例で鐘を撞くなと言われていますので、撞きません」と言うではないか。どちらも何だか釈然としない。仏教学者の山折哲雄氏の文章に、「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる、お手々つないで皆かえろ烏と一緒に帰りましょう」日本人の仏教感覚はそもそもこの山のお寺の鐘の響きとともに育まれたものであると言う一節がある。ヨーロッパなどで教会の鐘の響きを耳にするとき、音色は違っても、不思議な良さを感じることがある。現代社会はこういう心の深いところを無視して、ただ生きたい、ただ生き残りたい、というエゴイスティックな共生の合唱だけしか聞こえてこないのである。

投稿者 zuiryo : 2018年02月07日 10:26

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