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2017年01月05日

差引勘定ゼロの法則

世の中の摂理は、ウ〜ンと唸ってしまうほど旨く出来ているものだ。最終的には帳尻が合うようになっている。例えば私自身で言えば、青壮年期、嘗ての友人達は溌剌として華の時代を謳歌していた。しかしもう70代半ばとも成ると、世の中の第一線からは遠く離れ、只老いさらばえて行くだけ。それがどうしたってんだ!と言われると、返す言葉はないが、足はアカギレ手はシモヤケ、薄っぺらな着物でぶるぶる震えながら芋がゆ啜って過ごした青春時代の私。同じ世代でもこれだけ違うかと言うほどの別世界だが、その分今私は、大いに心の青春を謳歌している。毎日が楽しくって、やる事が次々に出てきて、2,3年先まで楽しい計画で埋まっている。当に差引勘定ゼロの法則だと思う。さて此処で引用させて頂いている通訳者の言によれば、通訳というのは翻訳者に比べると完璧さは要求されないされないのだと言う。一方翻訳の場合は表現が醸し出す雰囲気まで余すところなく厳密に伝えなければならない。また翻訳は後々まで残ってしまう。しかし仕事の成果がたちどころに消え失せていく通訳は、どんなまずい訳をしても痕跡が残らない。余りに傑作な誤訳でもしない限り、恥をかき捨てられる。基本的にはその場限りの「消えもの」なのである。またこれは余り大きな声では言えないが、同じ時間を掛けても、翻訳者は訳が絞り出されない限り、いつまで経っても仕事は終わらない一方、通訳者はどんなヒドい訳をしても契約時間が終われば仕事は終わる。しかしながらである。時々翻訳をすべきだと思っている。なぜか、通訳は訳(やく)が非常に粗雑に、貧しくなっていく危険がつきまとう。泥縄と付け焼き刃が交互に続くような人生に、しばし休止符を打ち、もう少し落ち着いて深みのある言葉との付き合いに身を浸してみるのも有益であると思うからである。

投稿者 zuiryo : 2017年01月05日 09:58

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